調査研究 政策提言

2023年度外交・安全保障事業

  • コメンタリー
  • 公開日:2023/09/01

「アブラハム合意」とは何だったのか――UAE・バハレーンにとってのイスラエルとユダヤ

MEIJコメンタリーNo.2

中東調査会 研究主幹 高尾賢一郎

「アブラハム合意」は誰のものか

 約3年前、2020年8月13日にUAEとイスラエルの国交正常化合意が発表された。その1カ月後、9月11日にはバハレーンが国交正常化合意を発表し、同15日のワシントンでの調印式による正式履行を経てスーダンとモロッコもこれに続いた。当初はUAEとイスラエルの国交正常化を指していた「アブラハム合意」が、イスラエル、米国、一部アラブ・イスラーム諸国からなる一種のチームを指す用語としても使われ始めたのはこの頃からであろうか。

 新たにイスラエルと国交を結んだ国々、とくにUAEとバハレーンはアブラハム合意の扱いに慎重な姿勢を見せた。その理由は、まずもってイスラエルとの公式な関係構築がアラブ諸国の間でタブー視されていたことである。実際、イスラエルとの国交正常化に踏み切ったエジプトやヨルダンは過去に「裏切り者」の汚名を被り、それはイスラーム過激派が同諸国を攻撃対象に挙げる際の口実ともなってきた。

 もう一つの理由としては、米国とイスラエルの当時の指導者、トランプ大統領とネタニヤフ首相が、アブラハム合意を執拗に自らの事績とアピールしたことが挙げられる。トランプ大統領は、2020年11月の大統領選挙での再選を見据える中でアブラハム合意を歴史的偉業と自賛し、ネタニヤフ首相もまた、中東地域にとってのエポックメイキングな出来事としてアブラハム合意の意義を強調し続けた。

 防衛・セキュリティシステムやITの先進国であるイスラエルと公式に貿易や技術協力を進めることのメリットは論を俟たない。しかしUAEやバハレーンからすれば、決してノーリスクではない決断を米国やイスラエルの手柄とされるのは、当然ながら愉快な話ではない。アブラハム合意をパレスチナへの裏切りやイスラエル・米国へのおもねりと位置づけるストーリーが出来上がる事態はなんとしても避けたかった。

 

「アブラハム合意」で何を得たのか

 こうした事情からUAEやバハレーンとしては、イスラエルとの国交正常化を自国による能動的な、また公益性の高い英断とアピールする必要があった。イスラエルを中東で孤立させるのではなく、あえてチャンネルを設けることでパレスチナ情勢の打開への道が拓け、ひいては地域全体の緊張が緩和されると訴えたことはその象徴であり、また経済面では、今まで公式な関係がなかった国との貿易が開始したことによるメリットを宣伝し続けている。前者に関しては、率直にいって特段の影響は見られない。アブラハム合意を経てイスラエル・パレスチナ間の武力衝突が小康状態に入った、ないしUAEやバハレーンが武力衝突を防ぐ、仲介するといった状況は生まれておらず※1、むしろ2023年には武力衝突が激化、長期化している。これに対するUAE・バハレーンの対応は、ひとまずイスラエルを批判し、パレスチナへの財政・人道面での支援を表明するという、従来通りのものだ。

 一方、後者の経済面についてはドラスティックな変化がしばしば報じられる。UAEは2023年4月のイスラエルとの包括的経済パートナーシップ合意の開始をもって、関税分類品目の96%以上を貿易で扱うことになり、デジタル貿易にかかわる法整備も進むことになる※2。一方のバハレーンは、経済面に加えて防衛分野での関係強化にも注力しており、2022年2月のガンツ・イスラエル国防相(当時)の初となるバハレーン訪問の際には治安面での協力にかかわる了解覚書が二国間で交わされた※3

 なおこれは、バハレーンに司令部を置く米軍第5艦隊(U.S. Fifth Fleet)による共同軍事演習のタイミングにあわせたもので、これにはイスラエルも参加していた。バハレーンからすれば、中東における米国の軍事的プレゼンスを支え、さらにイスラエルと米国の軍事協力におけるプラットフォームとしての役割を担う国としての存在意義を、アブラハム合意を通して示しているともいえる。

 

「アブラハム合意」は広がるのか

 貿易や技術協力に関しては、これまで公式にはゼロだった関係からの積み上げになるため、大きな影響が生じるのは当然である。ただしここでは、UAE・バハレーンだけでなくイスラエル、またアブラハム合意の仲介役である米国も積極的な情報発信を行ったことが重要である。とりわけイスラエルには、アブラハム合意に加わることで得られる実利を詳らかにし、それを他のアラブ諸国に対する訴求力としたいとの思惑がうかがえた。

 しかしながら、アブラハム合意というチームはいまだ拡大の兆しを見せていない。目下、イスラエルと米国が白羽の矢を立てている筆頭はサウジアラビアである。アラブ・イスラーム世界の盟主を自認し、イスラーム協力機構(OIC)やOPEC及びOPECプラスの牽引国として地域・国際レベルで強い影響力を有しており、なおかつイスラエルが(そして米国が中東で)最も警戒するイランと競合する国だ。ただし、サウジアラビアはまさにそのアラブ・イスラーム世界の盟主という立場から、自らが2002年に提案した和平構想(イスラエルによるパレスチナ占領地からの撤退、東エルサレムを首都とするパレスチナ国家の樹立。すなわち二国家解決案)を、妥協不可能な大原則としている。これによって、イスラエルとの国交正常化は同国がパレスチナに譲歩を見せるかどうか次第だとする立場を明確にした。

 それでもイスラエルと米国は、折に触れてサウジアラビアがアブラハム合意に加わる可能性に言及し、この話題自体を風化しないように努めている。例えばサウジアラビアが2020年9月にイスラエル・UAE間の就航便の領空通過を許可した際に続き、2022年7月にバイデン米大統領がイスラエルから直接サウジアラビアを訪問することを許可した際にも、イスラエルと米国はこれを国交正常化に向けた第一歩としてアピールした。また2023年のメッカ巡礼期間に先立ち、イスラエルは自国のイスラーム教徒が直行便でサウジアラビアに渡航できるようになるとの見通しを示すなど、サウジアラビアのアブラハム合意参加が着実に進んでいるムードを醸成しようとした。

 しかしこれは結局実現せず、イスラエルも米国も、サウジアラビアの早期のアブラハム合意参加は「不可能ではない」が「困難」と述べるにとどまった。UAE・バハレーンの例をみても、サウジアラビアがアラブハム合意に参加するためには、それをサウジアラビア自身によるサウジアラビアのための英断と位置づけるようなプロットが必須である。自陣がサウジアラビアを翻意させたというプロットにイスラエルと米国がこだわる限り、サウジアラビアが一歩を踏み出す可能性は低い。さらにいえば、イスラエルはイランの存在を念頭に、アブラハム合意に対して安全保障環境の整備という意義を持たせてきた。その点、2023年3月、サウジアラビアがイランと国交回復で合意したことはイスラエルにとって新たな障害といえる。

 

なぜ、ユダヤ教徒か

 ところで、アブラハム合意がUAEとバハレーンにもたらしたもう一つの変化がある。それは両国におけるユダヤ教徒の位置づけにかかわるものだ。これまでアラブ諸国において、ユダヤ教徒はしばしば「シオニスト政体」(イスラエルに対する蔑称)というスティグマに紐づけられた存在だった。それがアブラハム合意を経て、実利を呼び込み、また両国政府の寛容を標語とする政策にかなった存在として、にわかに肯定的な関心が寄せられ始めたのである。

 実利面は比較的単純な話だ。特にUAEでは、イスラエルからの観光客がもたらすインバウンド消費や、コシェル認証(ユダヤ教の食物規定)にのっとったレストランの普及など、アブラハム合意以降にユダヤ教徒がもたらす経済効果への注目が高まっている。一方で寛容をめぐる政策は少々複雑だ。この背景には、中東諸国が特に2000年代以降、「寛容」(あるいは「穏健」「中庸」など)を政策上の標語として掲げ、イスラーム過激派の封じ込めに取り組んできた事情がある。並行して、各国はイスラームに限らない自国の文化的多様性のアピールに取り組んできた。しかし、王朝を軸とした文明論の観点からは「先進国」と呼ぶのが難しいUAEやバハレーンには、イラン、エジプト、シリア、トルコといった、重層的な文明の上に成り立つ国々のような文化のモザイクが存在しない。その意味で、ユダヤ教徒はUAEやバハレーンにおいて多文化の一翼を担う貴重な存在となりうる。

 

 

写真 2022年12月にドバイにオープンしたUAE初のコシェル食料品店。イスラエルや米国からの輸入品が中心となる(筆者撮影)。

 

 ここにおいて、多文化が共存する寛容な社会という物語が、UAEとバハレーンとしては用意できることになる。もちろん外国人労働者を多く抱える両国には、南アジアや東南アジア出身のキリスト教徒やヒンドゥー教徒もいる。その中でなぜユダヤ教徒なのか。これはアブラハム合意というターニングポイントがあったことが大きいわけだが、同様に、ユダヤ教がこれまで否定的に見られてきた経緯があるからだろう。かつて忌避されたユダヤ教徒を今は受容しているという、そのいわば振れ幅の大きさが、寛容という標語をより説得的にするとの期待が両国政府にあるのではないか。

 

2つのマイルストーン

 ユダヤ教徒と彼らを受容している状況を可視化させるためになされた、2つの取り組みを紹介しておこう。

 1つ目は、2021年2月にドバイを本部に設立された湾岸ユダヤ協会(AGJC: Association of Gulf Jewish Communities)の設立である。組織構成や現時点での具体的な活動については別稿で整理したが※4、「湾岸」というタイトルからうかがえるように、AGJCはGCC加盟6カ国に存在するユダヤ教徒コミュニティの一種のアンブレラ組織と位置づけられる。ただし、それを実質的に担うのはUAEとバハレーンだ。この理由は国別に見たユダヤ教徒コミュニティの現状である。UAEには2019年に設立された首長国ユダヤ評議会(JCE: Jewish Council of the Emirates)、バハレーンにはGCC最古のシナゴーグ(The House of Ten Commandments)が存在し、AGJC以前にユダヤ教徒の組織・歴史・生活空間が確立していた。

 とりわけバハレーンに関しては、1880年代にイラクから移住したユダヤ教徒の末裔であるヌヌー家がAGJCの会長とバハレーン支部長を輩出しており、彼らはそれぞれが上院議員、駐米大使といった経歴をもつ。いわば、エスタブリッシュメントとしての地位を確立したユダヤ教徒が存在する。こうした事情も踏まえれば、UAEとバハレーンのアブラハム合意参加に対してはまた違った景色も見えてこよう。

 もう1つ、ユダヤ教徒に関する重要な取り組みが、2023年2月のアブダビにおけるAbrahamic Family House(AFH)建設だ。モスク、教会、シナゴーグ、すなわちイスラーム、キリスト教、ユダヤ教という3つの宗教の礼拝所が並び立つAFHは、2019年2月にローマ教皇フランシスコとアズハル総長アフマド・タイイブが署名した「世界平和と共生のための人類愛に関する文書」に基づいて建てられた。UAE政府はAFHの完成を、自国が進める寛容・共生にかかわる政策のマイルストーンとも位置づけてきた。

 現在、2023年3月に一般訪問が可能になったAFHでは金曜、土曜、日曜に各宗教の礼拝が執り行われている。一方、ルーブル・アブダビで知られるサアディーヤート島の文化地区という立地からは、AFHが日常的な宗教実践のために足を運ぶ場所とは少々異なる状況がうかがえる。それはUAE社会の現状というよりも政府の志向性の進捗を示す、まさに一里塚(マイルストーン)なのだ。

 

 

写真 AFHの門扉(左)とシナゴーグ内部(筆者撮影)。

 

何のための「アブラハム合意」か

 以上、アブラハム合意をめぐって各国が試みてきた多様な位置づけ、また活用の事例の一端を紹介した。上述したように、このチームは今後のさらなる拡大を志向している。それはイスラエル・米国にとってはもちろん、UAEやバハレーンにとっても自国の「悪目立ち」が軽減されるといった期待があると思われる。

 なおイスラエルに関して言えば、現在サウジアラビアへのアプローチを強めている背景には2つの要因がある。1つは、すでに述べた同国とイランとの国交回復だ。最近になって、シン・ベト(総保安庁)やモサド(諜報特務庁)を通してイランの潜在的な脅威を声高に叫んでいるのは、アラブ諸国がイランへの警戒を維持することを望んでのことだろう。

 もう1つは、ネタニヤフ政権が2023年1月に発表した司法制度改革案に対し、国内で幅広い層の市民による抗議運動が起こっていることだ。イスラエル政府としては、市民の目を国外、とりわけ国内に影響を及ぼす安全保障分野に向けさせることで政権に対する批判を緩和させる狙いが見られ、そこで強調されるのが、サウジアラビアとの国交正常化という偉業に政府が挑んでいるというストーリーだ。

 もっともこうした意図を見透かしてか、司法制度改革案に反対する野党イェシュ・アティドのラピード党首(元首相)と、彼とともに政党連合「青と白」の共同代表を務めるガンツ議員(元国防相)は、サウジアラビアとの国交正常化を理由に自分たちがネタニヤフ政権に与することはないと、政府をけん制する場面が見られた※5。あるいは、こうした状況が続けば、サウジアラビアとしてはアブラハム合意への参加に際して多大な恩をイスラエルや米国に売ることも可能かもしれない。

 

 

※『MEIJコメンタリー』 は、「中東ユーラシアにおける日本外交の役割」事業の一環で開設されたもので、中東調査会研究員及び研究会外部委員が、中東地域秩序の再編と大国主導の連結性戦略について考察し、時事情勢の解説をタイムリーに配信してゆくものです。

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  • ※1 唯一、UAEがイスラエルに対して成した成果と見られたのが、国交正常化合意の発表当時、イスラエルが計画していたヨルダン川西岸地区の併合計画を延期したことである。
  • ※2 UAE’s Ministry of Economy, “UAE-Israel Comprehensive Economic Partnership Agreement” (https://www.moec.gov.ae/en/cepa_israel, accessed August 18, 2023).
  • ※3 “Israel signs security cooperation agreement with Bahrain,” Al-Monitor, February 3, 2022 (https://www.al-monitor.com/originals/2022/02/israel-signs-security-cooperation-agreement-bahrain, accessed August 18, 2023).
  • ※4 高尾賢一郎「アブラハム合意後のアラブ諸国・イスラエル関係と湾岸ユダヤ関係(AGJC)」『中東分析レポート』R22-01、2022年4月、TAKAO Kenichiro, “Exposing the Tradition: Tolerance and Coexistence with Jews in the Contemporary Persian Gulf,” ORIENT: Journal of the Society for Near Eastern Studies in Japan, vol. 58, pp. 37-50.
  • ※5 “Lapid, Gants said to reject possibility of joining Netanyahu coalition for Saudi deal,” The Times of Israel, July 31, 2023.

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