中東調査会について

沿革

中東調査会の歴史

任意団体時代の中東調査会

 中東調査会の発足は、1955(昭和30)年外務省に中近東・アフリカ地域の政務担当課として、欧米局第7課が設立された直後であった。その年の10月、創設者小林元はこの第7課の「資料」作成の委託を受けて、研究グループを組織した。小林はこの研究グループをより公的なものとするため、1956(昭和31)年2月任意団体としての「中東調査会」を組織した。理事長に参議員議員井上清一(1957年外務省政務次官となる)を迎え、研究担当の常務理事は小林自身が当り、また、財務担当の常務理事に三菱商事常務取締役寺尾一郎の協力を得た。その他、会の役員としては、前嶋信次、板垣与一、矢部貞治、山名義鶴等の研究者、財界人数名が、理事、監事として名を連ねた。

 会の事務所は、最初参議院会館の井上清一理事長の事務所に置かれた。その後、井上は、1959(昭和34)年の参議院選挙に再出馬するに当って、理事長の職を山名義鶴に委ねた。なお、井上は1965(昭和40)年参議院議員の任期を終えると京都市長選に出馬して、1966(昭和41)年京都市長の地位についたが、京都市長となるまで終始会の活動を支援した。

 山名の理事長就任に伴い、会は事務所を中労委会館の一隅にある山名の労働者教育協会内に移した。なお、1966(昭和41)年9月、赤坂8丁目に新築された住宅公団ビルの1階の2室に移った。

 中東調査会は、設立当初外務省の資料作成に力を割いた。外務省欧米第7課(後中近東書記官室に改組)の刊行した「欧米7資料」の相当数は、当会の作業によっている。

 会は1957(昭和32)年には機関誌の刊行を企画し、6月に季刊「中東研究」1号を刊行したが、多彩で意欲的な論文にもかかわらず、全体的に時局性の乏しいものが多いこともあって購読者が増えず、翌年7月、4号をもって停刊を余儀なくされた。しかし、会は時局問題の報道、解説で啓蒙的役割を果す役割を痛感し、1958(昭和33)年8月、イラクの共和制革命の直後から半月刊で「中東通報」を発刊した。

財団法人中東調査会の設立

 1960(昭和35)年10月3日、外務大臣の認可を得て、財団法人中東調査会として公益活動をスタートした。会長には、伊藤武雄(大阪商船会社社長)が就任した。彼は外務省顧問を勤める国際感覚の強い財界人であり、1957(昭和32年9月、日本で最初の中近東特派大使として現地6カ国を訪問した経験を有し、中東への高い関心をもつ財界人であった。理事長の山名義鶴(もと貴族院職員、当時公安審査員)も、大原社会問題研究所に在籍したことがあり学術研究の良き理解者であった。また、常務理事は財務担当が森米次郎(佐世保重工社長)、研究担当が小林元であった。小林元は、1959年9月、日本人としては最初の中東問題専門家として米国国務省からの招待を受け、米国の中東研究調査機関を歴訪した。この事より、関係者は中東研究調査機能強化の意欲を高め、会の法人化を強く要望していた。こうして、1960(昭和35)年3月、財団法人設立発起人会が開催され、8月に法人認可申請、10月には外務大臣所管の財団として認可された。

山名義鶴の退任

 中東調査会の法人化を達成したことで、任務を果たしたと考えた山名義鶴は、1961(昭和36)年秋には辞意を表明した。東アジア問題に造詣が深く、また社民党系労働運動に深く携わった山名は、理事長をもともとショート・リリーフと考えており、中東専門家を理事長に迎えることを切望していたゆえの決意であった。その後任は、エジプト駐在大使を最後に退官(1961(昭和36)年春)した土田豊であり、1962年6月の理事会で正式に理事長に推挙され就任した。山名は財界との関係は薄かったが、「中東通報」を定着させ、「アジア・アフリカ民族運動の実態(1966年刊)」、「低開発諸国の社会主義移行に関する研究(1964年刊)」というそれぞれ3年掛かりの共同大規模研究を着手させるなど、研究機関として会の性格作りに大きく貢献した人であった。

土田理事長時代

 理事長に就任した土田豊は、1976 (昭和51) 年6月に死去するまで、14年の長期間理事長の任にあった。土田理事長時代の初期、日本と中東の関係はまだ希薄のままであった。アラビア石油による石油発掘の開始と諸石油会社の参加の動きはあったが、日本の石油輸入は大部分メジャーズに依存し、日本にとって石油問題の脅威はなお軽微であった。当時は高度経済成長にさしかかっており、日本の輸出で重工業製品の比重が急速に高まったが、それも限られた企業内の問題にとどまった。しかし、ナセル主義の高揚を身を以て体験した土田は、中東ナショナリズムの国際政治上の役割の重大化を指摘して、中東問題の研究と役割の強化を熱願した。土田は小林元の活動とあいまって研究、調査機能の強化に努めた。ことに小林は1958、60年の2回の中東旅行の成果を生かして、「中東通報」の内容充実とその他の研究の促進に力を尽くした。一方研究活動としては、「中東年鑑」の創刊、大型共同研究の「アジア・アフリカ新興諸国の政局と国際政治(1967年至文堂刊)」を完成した。

 会は土田理事長を迎えて意欲に燃えていたとき、小林の死去で大きな打撃を被った。小林は、文字通り中東調査会の生みの親であり、研究調査のかけがえのない指導者であった。小林は咽頭部の疾患に苦闘した末、1963(昭和38)年7月3日浦和市の赤十字病院でまだ惜しまれる58才の生涯を終わった。

 小林の死去後、会の調査研究業務は岩永博が担当することになり、岩永は1963年9月常務理事に就任した。同氏は「中東通報」を月刊としたほか「低開発国の社会主義移行に関する研究(1964年1月刊)」、「中東諸国経済開発の進度(上、下)(1965、66年刊)」、「アラブの統一運動(1967年刊)」、「アジア・アフリカ新興諸国の政局と国際政治(1967年10月刊)」等の発刊に努めた。

第3次・4次中東戦争の間

 第3次中東戦争(1967年6月)から第4次中東戦争(1973年10月)までの間は、土田理事長在任の中期に当たり、アラブ・イスラエル闘争がピークを迎えたことによる中東情勢の重大化と日本の高度経済成長による中東との経済関係の拡大に伴い、中東調査会の存在がようやく社会に広く認識され始めた。また1968年以来、OPEC諸国が石油価格の決定に主導権を握り、石油国有化政策を打ち出し始めた結果、石油問題が飛躍的に重大化した。

 このような情勢を踏まえた会は、研究、広報活動をさらに強化するとともに会の資料を一般に開放するため、資料室を「中東資料センター」に拡大する計画を巡らせた。しかし、1973(昭和48)年の第4次中東戦争とオイルショックによる物価騰貴に直面し「資料センター」の実質的実現に難渋した。しかし、「中東通報(月刊)」の内容充実に努めるとともに、調査報告の頻度の増加を図り、1970(昭和45)年より「中東政治経済資料」を刊行した。「中東政治経済資料」はさらに、1973(昭和48)年より、政治経済情報解説を中心とした半月刊の「中東政治経済ニュース」に拡大された。

第4次中東戦争時より土田理事長の末年まで

 第4次中東戦争(1973年10月)とOPECの石油禁輸政策および価格の大幅引き上げにより、中東問題は日本にとっての死活的重要性を帯びさせ、中東に関する専門研究機関も増大した。三笠宮崇仁殿下はオリエント学会を育成した後、中東研究全般の強化促進を念願し、新たに財団法人「中近東文化センター」を設立されていた(1975年2月)。また、「中東協力センター」(1973年10月)、「中東経済研究所」(1974年10月)が創設され、経済調査・協力の分野で活動を始めた。中東調査会も、第4次中東戦争前から手掛けた「資料センター」設置計画を進め、隣接したアジア会館に事業本部を移し、公団ビル内の資料室を拡大した。出版活動では、半月刊の「中東政治経済ニュース」の刊行のほか、個別研究の報告刊行を増加し、特に「中東年鑑」の内容拡張に努め、さらに「アラビア語・日本語辞典」の作成に着手した。1974年度より、土田理事長は健康を損ない、入院治療を繰り返し1976年6月に死去、理事長としての職を終えた。

活発化する広報事業

 1977年土田理事長の死去に伴い、新理事長に元駐仏大使の中山賀博が就任した。中山は水上達三(三井物産相談役)に会長就任を依頼するとともに、経団連を通し募金活動を展開して財産基礎を固めた。そのことにより、事務所も港区の虎ノ門(第15森ビル)に移転し、業務も拡大され、外務省の文化事業「中近東スポーツ交流事業」、「シリアでの日本週間」、「トルコでの日本週間」等に多大なる貢献をした。また、出版活動も「中東通報」「中東政治経済ニュース」「中東・北アフリカ年鑑」等に加え、『超大国と中東』『イスラム・パワー』『イラン1940-80年』『ジャマヒリーヤ』等の著作が一般市場に発行された。さらに、外務省の情報公開化に関連し、資料センターのOA化を推進、コンピューターによる情報整理、FAXによる情報提供を開始するなど、中東調査会のOA化が積極的に推進された。

 1989年6月、イラン革命の指導者の役割を演じたホメイニ師が死去する中で、同月、当会の近代化と財政基盤の確立に尽力した水上達三が死去。そして、同年12月水上達三と共に12年間当会の発展に尽力をつくした中山賀博が勇退した(中山は、その後も顧問として中東調査会の活動を支援したが、2003年7月永眠)。

民間外交の実績を残す

 1989年12月、中山賀博の辞任を受け新理事長に就任した元シンガポール大使三宅和助は、外務省及び当会役員と協議を行い、野村証券の田淵節也に第三代目会長を依頼し、新体制をスタートした。1991年、湾岸戦争を迎え、当会の諸活動がマスメディアで注目を集める中、常務理事の多田利雄の尽力により「湾岸平和基金」の事務局が一時当会におかれ、国際貢献の一翼を担った。同年12月、会長田淵節也が退任することとなり、新会長には日産自動車の石原俊が就任した。1995年には、情報化時代に対応するため長年事務所を構えた虎ノ門から西新宿の新宿アイランドタワービルに移転した。三宅理事長のもと、中東調査会は、「日本でのヨルダン週間」(1996年)、「ヨルダン日本週間」(1997年)の事務局として文化交流活動にも実績を上げた。日本でのセミナーには、ヨルダンと日本の皇太子が参加された。また、中東和平の進展にともない、わが国の対中東和平への貢献が拡大するなか、当会は「中東・北アフリカ経済サミット」への民間企業の参加呼びかけ、「パレスチナ暫定自治の選挙監視団」派遣への協力等を行い、わが国の外交を民間サイドから支えた。新宿アイランドタワー移転後は、併設される会議施設を活用して、外務省の中東政策についてのセミナーを毎年開催して、日本の中東政策の広報に尽力した。また94年には、「中東報道者の会」創設を支援し、中東和平交渉の進展にあわせ、規模の大きな投資セミナー、観光促進セミナーなどを実施した。基礎的な中東知識啓蒙では、1997年から、高校の社会科の先生方を対象とした連続講座を開始した。また99年8月には、日本のパレスチナに対する援助を評価するため評価ミッションをパレスチナに派遣した。

 90年代前半に日本でもインターネットの使用が急速に拡大したが、中山理事長時代に推進されたOA化の成果もあり、データ・ベースの作成や中東調査会のウェブサイトの立ち上げ、電子メールサービス開始などがスムーズに行われた。

情報化社会への対応

 1998年5月、石原俊会長が健康上の理由により退任し、第5代目の会長に、石川島播磨重工業の稲葉興作が就任した。同時に、副会長にセイコーの服部禮次郎が就任した。会は、両氏のもと、21世紀の高度情報化社会に対応した国際情報の提供を行えるよう体制を整えた。1999年5月、三宅理事長が退任し、会長稲葉興作が会長と理事長を兼務した。2001年9月、米国同時多発テロが発生し、中東調査会がメディアで扱われる頻度が増大し、社会的な認知も強化された。2002年4月、当会の各種事業を充実させるため事務所を新宿区のアイランドタワーから同区内の三光パークビルに移転した。講演会会場を併せ持つビルへの移転により広報活動の強化を行い、中東の基本的知識啓蒙のための「中東塾」を開始した。また事務所移転により、光ファイバー使用の開始,衛星放送の受信が可能になり、電子メディアを使用する環境を改善した。

 2002年12月、元ドイツ大使で、日本国政府代表大使の、有馬龍夫が新理事長に就任した。米国などに人脈を持つ有馬の理事長就任により、中東調査会は、中東だけでなく、米国の中東政策も視野に入れたグローバルな枠組みでの活動を強化した。2003年5月には、東京で開催された外務省によるイスラエルとパレスチナの信頼醸成会議を事務的に支援した。またイスラム・中東諸国との対話にも積極的に乗り出し、2003年10月には東京で開催された「日本とイスラムとの対話セミナー」を外務省と共催で開催、2004年2月には、独立行政法人国際協力基金に協力して「日本と中東イスラム諸国-共生の時代」シンポジウムを開催した。2004年度には、外務省、独立行政法人国際交流基金と協力して、地方都市での「アラブ・イスラム理解セミナー」シリーズ実施している。2005年からは、日本イスラム協会との共催で、イスラム諸国とイスラムについて分析する「理論と動向研究会」を開始した。また2006年6月には、バハレーン中央銀行との共催で、「イスラム金融セミナー」を開催した。

 中東調査会は、90年代以降、電子メディアやインターネットを利用した情報サービスを強化してきたが、その一方で、印刷物や冊子での情報サービスなど伝統的な媒体の利用法を新しい視点で見直す必要があるとして、2006年11月から、印刷物の情報誌「中東トピックス」と「中東分析レポート」を発刊した。

 こうした中、98年から会長として中東調査会の活動を支えてきた稲葉興作が2006年11月26日逝去した。常任理事会は、直ちに服部禮次郎副会長を会長代行に選出、同年12月25日の理事会で会長に選任した。

佐々木幹夫が新会長に就任

 2008年1月25日に開催された評議員会は、三菱商事(株)会長の佐々木幹夫を新理事に推薦し、同日の理事会で同氏を新会長に互選した。

 佐々木新会長は、経団連副会長や日本貿易会会長などの経済界の枢要ポストを務めるのみならず、自身も中東に駐在した経験を持ち、現在、日本・アラブ対話フォーラムの財界代表メンバー、日本・ヨルダン協会会長職を通じて中東とも関係が深い。


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