中東かわら版

№12 イラン:米国政府による「アラビア湾」呼称問題

 5月8日付AP通信は、2名の米当局者の証言として、トランプ米大統領が13日からのサウジアラビアを含む湾岸諸国歴訪で、国際的に「ペルシア湾」と呼ばれてきた海域を「アラビア湾」という呼称に変更する計画であると報じた。

 この報道に対し、アラーグチー外相は「オマーン海」や「インド洋」といった海域の呼称の使用は、同海域に対する特定の国の所有権を示唆するものではないと指摘したうえで、「歴史的に確立されたペルシア湾という名称を変更しようとする、政治的に動機づけられた試みは、イランとその国民に対する敵意を示すものであり、強く非難されるべきことだ。このような偏った行為は、その背景や居住地にかかわらず、すべてのイラン人に対する侮辱である」と非難するなど、イラン国内外で多くの反響を呼んでいる。

 

評価 

 「ペルシア湾呼称問題」は、日本と韓国・北朝鮮間の「日本海呼称問題」と同様、あるいはそれ以上に、関係国間の政治的対立の発火点となってきた。

 アラーグチー外相も指摘するとおり、「ペルシア湾」という呼称の唯一性と正統性は、イラン人としてのナショナル・アイデンティティを有するあらゆる人々が一致して強く主張するものであり、世界各地に散らばり、様々な問題で対立するイラン人たちが団結できる、唯一の、あるいは数少ないテーマの一つである。イスラーム共和国体制の支持者も反対者も、「ペルシア湾」という名称の護持では意見をたがえることはない。

 「ペルシア湾」という名称の歴史は古い。それは古代ギリシア・ローマ時代から用いられてきたとされ、ラテン語で「ペルシア湾」を意味するSinus Persicusの訳語が欧州及びイスラーム世界で連綿と使われてきた。その意味で「ペルシア湾」はもともと他称であり、古代ペルシアのアケメネス朝やサーサーン朝といった王朝で、この海域がどのように呼ばれてきたのかは分かっていない。

 この海域は、ヨーロッパ近世に作成された地図で(オスマン帝国の呼び方に倣い)「バスラ湾」、「アル・カティーフ湾」などと記されていることがあり、また「アル・カティーフ湾、かつてのアラビア湾(Mare Elcatif olim Sinus Arabicus)」と記されているものもあるが、「ペルシア湾(Sinus Persicus)」という名称が主流であることは否めない。

 20世紀に入ってこの海域を「アラビア湾」と呼んだ最初の例としては、1957年に出版された英国の著述家・冒険家ロデリック・オーウェンの著作The Golden Bubble: Arabian Gulf Documentaryが知られている。ただし、バハレーンを拠点にクウェイトやカタル、ドバイを旅したオーウェンは、そこで出会ったのがもっぱらアラブ人だったことから、この海域を「アラビア湾」と呼んだにすぎなかったようだ。

 しかし、アラビア語に翻訳されたオーウェンの著作が契機となって、パン・アラブ主義の促進を目的として、1950年代末から「アラビア湾」という呼称がイラクを中心に用いられるようになった。

 イランはその当初から、「アラビア湾」の使用に強く反発したが、そこには「アラビア湾」の使用を主張するパン・アラブ主義者たちのナショナリスティックな感情に負けずとも劣らぬ、強烈なイラン人のナショナリスティックな感情が伏在する。それはときに、「(セム人種とは異なる)アーリア人の末裔」という人種主義的な感情すら伴うこともある。

 アラーグチー外相は、「オマーン海」などを例にして、これらの呼称は、それによって示された地域に対する特定の国の所有権を意味するものではないと述べているが、しかしペルシア湾全体がイランの一部であると漠然と理解しているイラン人も少なくない。

 例えば、「イラン版インスタグラム」とも言える某画像共有サイトに体制支持者と思しき人物によって投稿されたある画像では、ペルシア湾とカスピ海が描かれたイラン地図のみが「真の」イラン地図であり、それのない地図はサウジアラビアが作った「フェイク」地図だと主張されている(この投稿そのものは、2年以上前のものであり、今回の報道をめぐる騒動とは無関係)。こうしたイメージは体制支持者のみならず、一般のイラン人の領土的アイデンティティをよく表しており、このようなイラン人一般のナショナルな感覚は、ペルシア湾海域における領海についての正しい知識の有無とは別に、体制指導者たちも共有している。

 1979年の「イスラーム革命」後の一時期、「イスラームの団結」にほだされた一部の革命指導者は、「ペルシア湾」から「イスラーム湾」への改称を提唱したとされる。例えば、革命裁判所判事として、反革命分子を略式裁判で次々に処刑したことで有名な「ハンギング・ジャッジ」ハルハーリー師は、1979年5月に訪問先のアラブ首長国連邦で、「ペルシア湾」を「イスラーム湾」あるいは「ムスリム湾」と呼んだという。しかし、こうした流れは決して主流とはならず、「アラビア湾」の呼称が用いられるたびに、「偽称」であるとしてイラン政府から強烈な反発が起こるのが常だった。事実、1年から数年に一度、湾岸のアラブ諸国のナショナルチームによるサッカー大会The Arabian Gulf Cupが開かれるたびに、イランからは批判の声が起こる。2010年には、ペルシア湾の呼称がもとで、テヘランでの開催が予定されていた「イスラーム連帯競技会(Islamic Solidarity Games)」が中止されたこともあった。

 今回の報道を受け、革命防衛隊の元幹部で国会議員のコウサリー氏は、イランとサウジアラビアの関係を破壊しようとする米国の企てだと指摘しているが、米国の意図はともかく、団結すべき「イスラームの同胞」間の関係が地理の名称をめぐって容易に「破壊」されてしまうところに、現代中東諸国における「イスラーム」の位置が透けて見えると言えるだろう。

(主任研究員 斎藤 正道)

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