№87 トルコ:フェトフッラー・ギュレン師死去とトルコの反応
2024年10月20日、トルコ出身の宗教指導者フェトフッラー・ギュレンが、亡命先の米国で、83歳で死亡した。死因は明らかにされていないが、以前から心臓疾患や糖尿病を患っており、健康状態が不安視されていたことから病死とみられる。
ギュレン師は1941年(1938年生まれとの説もある)4月21日、トルコ東部エルズルムでイスラーム指導者の子として生まれ、1960年代に西部のイズミルでヒズメット運動(ギュレン運動)の基盤を築いた。同師の思想や運動は主に教育機関を通じて広がり、若者を中心に国内で社会的な影響力を拡大させていった。
しかし、ギュレン師が次第に政治的な発言を公にするようになると、エジェヴィト政権(1999年1月~2002年11月)は、「国家安全保障への脅威」と見なして圧力を強化した。こうした国内の情勢を受けて、ギュレン師は1999年に健康問題を理由に米国へ事実上の亡命を図ったが、組織の指導者としての立場は変わらず、信奉者への指導を続けていたと見られる。
2016年7月15日にトルコで発生したクーデタ未遂事件を、エルドアン大統領はギュレンの指示の下で実行されたと断定し、「フェトフッラー派テロ組織(FETÖ)」として指定した。非常事態宣言下での捜査により、FETÖとの関わりが疑われた数万人が逮捕され、公務員約13万人、軍関係者2万3000人以上が解雇された。さらに、FETÖの関連企業、報道機関、教育機関が次々と閉鎖に追い込まれた。
ギュレン師の死について、エルドアン大統領は「ギュレンは他の歴史上の悪魔のように、恥ずべき死を遂げた。彼は犯した罪から逃げ切れず、最終的には神の裁きから逃れられないだろう」と述べ、「子供たちを洗脳して利用した者」として強く非難した。また、国家としてFETÖに対する戦いを完全に終えるまで続けることを強調した。フィダン外相も、FETÖに対する戦いが国家の最優先事項であり、今後も継続すると語った。
評価
ギュレン運動は、表面上は穏健なイスラーム主義を標榜する、宗教的・社会的な組織である。教育を重視し人材育成を掲げたが、その背後では、教育や対話を通じて組織の影響力を拡大させることで、政治的支配を目指していたとされる。
FETÖは日本を含め100カ国以上で慈善団体やシンクタンク、企業、予備校、インターナショナルスクールなどを設立し、グローバル・ネットワークを構築した。一方、トルコ国内では、政治家や軍、治安機関など国家の中枢に信奉者を送り込み、新聞、ラジオ、テレビなどの報道機関を運営することで国内の世論形成に関与した。
ギュレン師は、2002年に親イスラーム主義の公正発展党(AKP)が政権を獲得してから10年以上にわたってAKPを支援し、エルドアン大統領とも親密な関係を築いた。だが、2013年頃から次第に権力闘争が激化し、2015年末には対立が表面化した。
翌年発生したクーデタ未遂事件直後から、トルコ政府は米国に対してギュレン師の身柄引き渡しを強く要求したが、米国はこれに応じず、トルコ・米国関係悪化の一因ともなった。
ギュレン師は生涯未婚で子供がおらず、後継者の指名も行っていない。甥であるセリム・ギュレンが一部で後継者候補として取り上げられたことはあるが、具体的な指名や公式な声明はなく、組織の後継体制そのものが曖昧である。
同師の死によってFETÖが弱体化するかは不透明であるが、今後の指導者次第では、内部分裂や権力争いが生じ、組織の一体性が失われる可能性もある。もし分裂した勢力が穏健派から過激派へと傾けば、国内の治安上の脅威が増すことが懸念される。このような事態は、エルドアン政権にFETÖとの戦いを強化させる可能性がある。ガザ危機への対応や経済政策などの喫緊の課題を抱える政権にとって、こうした状況は避けたい懸念材料の一つだろう。
(主任研究員 金子 真夕)
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