中東かわら版

№64 アルジェリア:ブーテフリカ前大統領が死去

 2021年9月17日、ブーテフリカ前大統領が84歳で死去したと国営テレビが発表した。これを受け、タブーン大統領は3日間の服喪を宣言した。19日にはアルジェでブーテフリカの国葬が行われた。

 ブーテフリカは1937年にウジュダ(現モロッコ領)で生まれ、19歳時に対仏独立闘争に参加し、1962年の独立後は青年・スポーツ相(1962-63)、外相(1963-78)を歴任した。その後、脱ブーメディエン政権化を進める軍部の策略によって国を追われ、国外で不遇の時代を過ごした。1987年の帰国後、「民族解放戦線(FLN)」中央委員会のメンバーに任命され、1999年の大統領選挙では軍部の支持を受けて出馬・当選し、アルジェリア史上初の文民大統領となった。

 ブーテフリカは大統領任期を4期務めたが、在任中は2005年に出血性胃潰瘍、2013年に一過性脳虚血発作を発症するなど健康問題を抱え、彼が公の場に現れる機会は年々減少した。こうした状況下、2019年2月に5期目の出馬に反対する大規模デモが発生し、最終的にガーイド・サーリフ参謀総長(当時)によって辞任に追い込まれ、20年にわたるブーテフリカ政権が終焉するに至った。

評価

 ブーテフリカ政権の20年間を振り返った際、主な特徴として、1990年代内戦からの治安・秩序の回復と、原油高の恩恵による潤沢な資源収入が挙げられる。まず、同政権は1999年の「市民融和法」や2005年の「国民和解憲章」の成立を通じて、内戦期に軍と対峙した武装組織の戦闘員に投降を促し、武装解除に成功した。次に、同政権は資源収入を財源としたばらまき政策として、公務員数を増加させたり、生活基礎物資への補助金を充実させたりすることで、国民の支持獲得や社会不満の抑制を図った。2011年の「アラブの春」への対応時にも大規模な財政出動を行うことで、拡大しつつあった社会不満を抑え込み、体制存続を果たした。

 その一方、ブーテフリカ政権が和平の対話に応じないイスラーム過激派との対決姿勢を強めたことで、過激派は活動を活発化させた側面がみられ、現在も過激派による攻撃事件が散発している。また、資源収入依存の政治経済構造では、資源収入の低迷が国の財政問題に直結し、政治体制の安定性を揺るがす要因となっている。

 今般のブーテフリカの死去は、対仏独立闘争への参加経験を持つ革命世代が政治の第一線から徐々に退いている現状を表す。革命世代はこれまで独立闘争での偉業を誇示することで支配の正統性を構築してきた。その一方、彼らの主張は同闘争を経験していない若者世代には響いていない。ただ、現在の大統領出馬資格には、同闘争への参加経験や親世代が革命運動に敵対行為を行っていない条件が憲法で規定される。こうした革命世代及びその子孫らを優遇する側面は、世代交代が表面上進んでも、実際は革命世代の関係者が権力中枢部に居座り続ける構図を示していると言える。

(研究員 高橋 雅英)

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