中東かわら版

№70 レバノン:ムスタファー・アディーブを首相指名

 2020年8月31日、レバノンの国会は90人(全128議席)の賛成票で元駐ドイツ大使(2003~2020年)のムスタファー・アディーブを首相に指名した。組閣期限は2週間。アディーブ氏は首相に指名された後、短期間での組閣、ベイルート港爆発事故の徹底的な捜査、腐敗根絶の政治改革を実施すると発表した。

 アディーブ氏の選出に際しては、サアド・ハリーリー、フアード・シニオラ、ナジーブ・ミーカーティー、タマーム・サラームの元首相らが事前協議で同氏を首相候補とすることで合意し、国会の採決にかけられた。報道では、フランスのマクロン大統領がアウン大統領との電話会談で、元首相の協議で首相候補を決める方式を提案したとされる。

 9月2日から諸政党の組閣協議が始まった。アディーブ氏指名直後にマクロン大統領が再びレバノンを訪問し、ベイルート港爆発事故現場や医療施設を視察したほか、主要政治勢力との会談で早期の組閣と改革の実行を求めた。現時点では、親シリア勢力(自由愛国運動、ヒズブッラー、アマル運動、マラダ潮流など)や反シリア勢力(未来潮流、レバノン軍団、カターイブ党など)は特定の閣僚ポストを要求しておらず、危機的状況において早期の組閣に協力する姿勢を見せている。

 

評価

 ベイルート港爆発事件以降、レバノンはフランスの強い影響下にあると言える。マクロン大統領は破壊的ダメージを受けたレバノンへの国際的支援を呼びかけると同時に、宗派主義制度がレバノン政治の制約となっており、新しい政治形式の構築に向けた改革が絶対的に必要であると呼びかけた。国際社会からの経済支援の条件として、腐敗撲滅を目指す政治改革が掲げられた。フランスは元宗主国としての立場を考慮して、レバノンに危機的状況から脱出する助けを提供していると思われるが、新首相候補の選出過程への関与や政治改革の要求はやや内政干渉に近い行動である。他方、レバノン国内の政治勢力がこのようなフランスの関与に反発しない理由は、改革を条件とした国際的援助を受けなければ経済が立ち行かない瀬戸際に追い詰められているからであろう。

 問題は、マクロン大統領が言及した「新しい政治形式」とは具体的にどのような形式が想定されているのか、またアディーブ内閣が成立したとしてレバノンの政治勢力はどのような形での改革で合意できるのか、である。レバノン政治・経済に蔓延する腐敗や政治決定の遅さは、内戦前から続く宗派主義や、ターイフ合意(1989年)で決定された宗派間の権力分有制度が根源的な原因である。これが宗派間での既得権益の相互承認、宗派内部での既得権益の分配と腐敗を制度化し、国政レベルでは利害対立で政策決定が進まない特有の政治形式が固定化された。こうした構造の破壊は諸勢力の既得権益の喪失を意味し、政治対立の長期化と暴力化が予期されるため、実はどの政治勢力も宗派主義制度の解体を望んでいないと思われる。今後、政治改革議論が進まず、対立が続いた場合、フランスはレバノン政治に再び混乱をもたらしたという結果になるだろう。

 

【参考情報】

*関連情報として、下記レポートもご参照ください。

 <中東かわら版>

・「レバノン:ベイルート港での爆発事件と政治の麻痺」2020年度No.56(8月13日)

(上席研究員 金谷 美紗)

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