2023年度外交・安全保障事業
- コメンタリー
- 公開日:2024/10/08
制裁下のイランにおける国際輸送回廊構築と近隣外交の課題:パキスタンとアゼルバイジャン共和国との関係に焦点を合わせて
MEIJコメンタリーNo.7
同志社大学グローバルスタディーズ研究科教授 中西久枝
はじめに
ユーラシア大陸では現在、2つの戦争、すなわちウクライナ戦争とガザ戦争が続いている。これら2つの戦争によって、中東ユーラシア地域はより不安定な情勢となっている。ウクライナ戦争後、イランがしだいにロシア寄りになったことで、イラン革命以来敵対関係にあるアメリカとイランの関係が大きく変化した。欧米は、イランがロシアにドローンを供与したとしてイランへの批判を強めていたが、9月上旬になり短距離ミサイルを新たに供与したとしてアメリカがイランに追加制裁を科した。制裁下のイラン経済は、ますます打撃を受けている。
また、7月31日にハマスの政治指導者がテヘランで暗殺されたことで、イランが報復すると声明を出し、アメリカは、イランのイスラエルへの報復に備えてペルシャ湾に駐留するアメリカ艦隊を2隻に増やしている。イスラエルとイランの対立が深まる中、ペルシャ湾での船舶の安全な航行は、日本のエネルギー安全保障にとって、極めて重要である。日本が輸入する中東の石油は、ペルシャ湾のホルムズ海峡からインド洋、マラッカ海峡を経由してタンカーで運ばれる。そのペルシャ湾を南に臨むイランが、この海域にいかなる安全保障の政策を展開しているかは、日本にとって重要な問題である。
ここでイランの安全保障政策と言うとき、二つの側面に注目すべきである。ひとつが海洋の安全保障であり、もうひとつが経済安全保障である。前者は、イランのアフマディーネジャード元大統領が2005年に「イスラエルは地図から抹消されるべきだ」と発言して以来、イスラエルとの敵対関係が強まり、イスラエルによるイラン攻撃の可能性をペルシャ湾でどう回避するか、という問題である。後者は、イランが近年、国際南北輸送回廊の構築を目指してきた文脈の中で、本回廊計画上重要な拠点になるチャーバハール港の開発問題である。前者については、イランが海軍の防衛能力を強化すべく、ペルシャ湾でのプレゼンスを高めてきたことはよく知られている。他方、イランがホルムズ海峡周辺地域をどのように経済開発しようとしてきたかについては、あまり取り上げられてこなかった。そのため、本稿は、イランの経済の安全保障に焦点を絞る。
国際南北輸送回廊は、大枠としてはインドのムンバイから、イランのバンダル・アッバース港及びチャーバハール港から北上し、カスピ海からロシアのサンクトペテルブルグへと伸びる回廊であるが、実際にはさまざまな支線で連結され、ロシアまでにとどまらず、黒海の方向から欧州まで連結される可能性がある。イランは黒海への連結を見据え、国際南北輸送回廊という名称のほか、「ペルシャ湾黒海回廊」という呼び名で回廊計画を考案している。またそのために、イランは隣諸国との関係強化を外交の柱に位置付けている。
では、イランは国際南北輸送回廊の構築という課題をホルムズ海峡においてどのように組み立ててきたのだろうか。以下の考察では、まずその概要を取り上げ、その上で、イランの近隣外交の事例として、パキスタンとアゼルバイジャン共和国を取り上げる。
イラン・パキスタン関係については、国際南北輸送回廊の南端で重要な拠点となっているチャーバハール港からグワーダル港とを結ぶ、イランのシスターン・バローチスターン州南部からパキスタンのバローチスターン州に至る地域が、イランのパキスタンとの近隣外交上、今日いかに緊張しているかを解説したい。次に、イランのもう一つの重要な近隣国であるアゼルバイジャン共和国との関係について、2020年の第二次カラバフ戦争後重要な交易路となったザンゲズール回廊をめぐる抗争について考察する。
1.ホルムズ海峡の経済安全保障―マクラーン開発計画とイラン・パキスタン・ガスパイプラインの事例から
マクラーン開発計画
イランのペルシャ湾における海洋安全保障政策の柱は、オマーン湾からホルムズ海峡にかけての海域におけるイランのプレゼンスを高めることである。ドレスマンの報告書によれば、イランはペルシャ湾に、バンダル・ホメイニー、バンダル・マーシャフル、ホラム・シャフル、ハールグ島、バンダル・ブーシェフル、アサルーイェ、バンダル・アッバース、ジャースク、ボスターン、チャーバハール、ケシュム島、シリ島、アブムーサ島、大小トンブ島などに軍事基地を建設しているという(Dolesman, 2022, Iran and the Gulf Military Balance)。
他方、これらの軍事基地の中には、バンダル・アッバースやハールグ島のように軍事面のみならず通商上の基地をも兼ねた拠点がある。イランは交通輸送のネットワークの結節点となる基地を構築することを意図し、バンダル・アッバースより東側からパキスタンの南部国境に至るまでの地域をマクラーン海岸と呼び、この地域の開発に乗り出している。
これはイランでは「マクラーン開発事業」と呼ばれ、2008年頃よりハーメネイー最高指導者が構想し始め、2015年にイラン海軍に計画の実施を要請した。本事業の背景には、イランの石油の少なくとも8割がハールグ島石油ターミナルから輸出されていることへの危機感がある。すなわち、イランは、石油輸出の搬出ルートがホルムズ海峡に集中しているのをどう分散していくかという課題に直面している。
マクラーン地区は、オマーン湾からパキスタンのカラチの西部まで続く、約600kmの海岸線があり、その中心地にチャーバハール港がある。イランは、この地域にイランの石油化学産業のハブを建設し、石油や天然ガスの搬出ルートを開拓する計画である。イランは、マクラーン地区の産業開発事業を実施しつつ、パキスタンとは2010年、イラン・パキスタン天然ガスパイプラインを構築することに合意した。
図 マクラーン開発事業地図
[出典:https://iranthisway.com/wp-content/uploads/2020/11/147971_523.jpg]
イラン・パキスタン・ガスパイプライン事業とバローチスターン地域の治安問題
イラン・パキスタン天然ガスパイプライン(以下、IPパイプライン)建設は、当初イランとインドの2カ国でその建設が2005年に合意され、その後パキスタンを含む3カ国の事業として構想されていた。その後、2008年にインドが撤退したため、イランとパキスタンの2国間のプロジェクトとなった。イランは2013年にイラン側のパイプラインを着工し、2023年11月にはアサルーイェからイラン・シャフルまで902kmの部分を完成し、2024年4月までにはイラン側の全1150kmのパイプライン建設を終了していた(ロイター2024年4月24日)。
図 イラン・パキスタン天然ガスパイプラインのルート
[出典:https://blog.knak.jp/2013/03/post-1221.html]
しかしながら、パキスタン側の780kmは、資金不足で建設が進まず、2014年に10年間の延長をパキスタンが求め、その期限が2024年9月に迫り、9月3日、イランはパキスタンに対し契約の履行を訴え、履行されない場合、イランがパリ仲裁裁判所に申し立てを行うと警告した。実際にイランが提訴すれば、パキスタンは180億ドルの罰金を科せられると予測されている。パキスタンは、イランとの合意を実施すればアメリカの経済制裁を受ける可能性があり、さらにIMFからの借り入れが困難になるリスクが生じると考えており、むずかしい状況に置かれている。そのためパキスタンは、恐らくは罰金の額を減じるようイランと交渉すると見られている。罰金を支払うということは、建設を放棄することにつながり、IPパイプラインの建設は、パキスタン側が完成しにくい状況になっている。
かねてよりイランは、ライーシー前大統領が2024年4月にパキスタンを訪問し、両国間の貿易額を5年間で100億ドルにまで拡大する意向を示していた。ガスパイプラインが完成すれば、イランは日量7500億立方フィートの天然ガスをパキスタンに5年間に亘り輸送する予定であった。上述のようにイランの天然ガスの輸出がIPガスパイプラインを通じて見込めないとすると、イランの対パキスタン貿易額も容易には拡大せず、制裁下のイランにとって痛手となる。またIPパイプラインはパキスタン側ではグワーダル港の北部を走る予定であったことから、グワーダルへの中国の影響力を望まないインドにとっては、IPパイプラインが進展しないことでグワーダルのパキスタンにとっての重要性が低下するのは好都合であろう。
また、中国・パキスタン回廊の拠点の一つとなっているグワーダルは、パキスタンのバローチスターン州にあるが、この州の治安が現在悪化している。当地では、バローチスターン解放軍という武力勢力がパキスタンからの分離独立を目指し、政府系の車両を襲撃したり、パキスタンの治安部隊と銃撃戦を起こしたりする事件が2024年8月26日に起こった。パキスタン政府はインドが武装勢力に武器供与をしていると主張する一方、インドはバローチ民族がいかにパキスタンと中国の軍部による暴力を受けてきたか、両国の当地での開発事業による搾取が進んできたか、という点を強調することで、パキスタン政府を批判している。このようにインドとパキスタンの関係は、この数カ月悪化している。
バローチ民族の分離独立運動は、イラン内のバローチ民族、パキスタン内のバローチ民族の各勢力の間でそれぞれ展開しており、イランとパキスタンの両国にとって国家安全保障上の課題となってきた。いうまでもなく、パキスタンのバローチ族は、国境で隔たっているとはいえ、イランのシスターン・バローチスターン州に住むバローチ族(主にスンナ派)と同民族である。2024年1月にはイランがパキスタンのバローチスターン州をミサイルやドローンで攻撃し、それへの報復としてパキスタンがイラン側へ越境攻撃を行い、両国関係が一時緊張していた。イランは、スンナ派の武装勢力ジャイシュ・アル=アドル(JAA)という、イランにとっての反政府勢力を標的にしたと、越境攻撃を正当化した。またパキスタンは、上述のバローチスターン解放軍とバローチスターン解放戦線という反パキスタン政府の武装勢力がイラン側に存在したとして、そうした勢力への攻撃であったと説明した。イランとパキスタンの間の関係悪化は、その後回復基調にあったものの、ガスパイプライン問題で再度悪化している。
2024年8月下旬のパキスタンでのバローチ民族の武装集団の襲撃事件の背後にどこまでインドが関わっているのかは明らかではない。他方、インドとイランはチャーバハール港の開発で協力関係にある。従来、インド洋の回廊の拠点として、チャーバハールとグワーダルはインド対中国の対立の構図として捉えられてきた。グワーダルの重要性が治安問題とパイプラインの未完成という要因から小さくなり、チャーバハールの優位性が高まるように見える。だが問題は、それほど単純ではない。チャーバハール港もまた、イランのシスターン・バローチスターン州というバローチ民族の武装集団が居住する州にある以上、パキスタン側での分離派の動きの余波がイランに拡大していく可能性がある。その意味では、イランとパキスタンの国境を跨ぐ両バローチスターンは、今後インド洋の輸送回廊の行方に影響を与えるホットスポットであると言える。
同一民族が国境を跨いでいることで、地政学的なリスクが高い地域はユーラシア大陸には他にも多くある。その中でイランが関わっているのは、アゼルバイジャン共和国のアゼルバイジャン人とイランの東西アゼルバイジャン州のアゼルバイジャン人が同一民族であることである。(ここであえて「アゼルバイジャン民族」と呼ばないのは、彼らが部族単位の社会を形成しているわけでは必ずしもないからである。)次の節では、イランとアルメニアの国境沿いに位置するザンゲズール回廊の問題について最近の動向に目を向けたい。
2.ザンゲズール回廊問題―国際南北輸送回廊の中継点としての南コーカサスをめぐるイランとアゼルバイジャンの対立
ザンゲズール回廊とは
南コーカサスの資源国であるアゼルバイジャン共和国は、国際南北輸送回廊と中央回廊とが重なる重要な経由地である。ザンゲズール回廊は、アルメニアの領土内にあるが、アゼルバイジャン共和国の主たる領土とその飛び地の領土であるナヒチェヴァンの中間点にある回廊である。アゼルバイジャンが2020年の第二次カラバフ戦争で圧倒的な勝利を収め、カラバフ地域のほぼ7割を奪回した。その結果、アゼルバイジャンから見れば、カラバフから飛び地のナヒチェヴァンとの間が、約35kmの幅しかないザンゲズール回廊を開通していくチャンスが生まれたのである。ここが開通すれば、アゼルバイジャンはナヒチェヴァンが接するトルコまで陸続きに接続できる。第二次カラバフ戦争後、アゼルバイジャンとトルコは、ザンゲズール回廊の重要性を強調し、その構築を構想し始めた。この動きに反対したのはイランである。
ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、2024年8月19日バクーを公式訪問し、アゼルバイジャンのイルハム・アリエフ大統領と会談し、戦略的パートナーシップの強化と二国間の経済関係の強化に関するいくつかの協定が締結された。この動きは、南コーカサスにおける、イランとロシアの対立、イランとアゼルバイジャンの対立に火をつけるようなものであった。こうした対立は、ザンゲズール回廊計画をめぐる問題の中に縮図として表れている。以下、ザンゲズール回廊問題をめぐるイラン、アルメニア、アゼルバイジャンの関係について取り上げる。
図 ザンゲズール回廊とアラス回廊
[出典:CCBS HP https://ccbs.news/en/article/7374/]
イラン、アルメニア、アゼルバイジャン関係
イランは長年、アルメニアとの関係を重視し、経済的な協力関係を維持してきた。そのイランにとってザンゲズール回廊が開通することは、イランとアルメニアの通商ルートが迂回されることを意味する。また、第二次カラバフ戦争でのアゼルバイジャンの大勝利で高まったアゼルバイジャンのナショナリズム高揚の動きがイランを刺激し、両国関係は険悪な状態に陥った(中西久枝「イラン・アゼルバイジャン関係の変化と中東ユーラシア地域の回廊構想」『中東研究』第550号、2024年参照)。それはなぜだろうか。
アゼルバイジャン民族は、アゼルバイジャン共和国とイランの東西アゼルバイジャン州に分かれ、国境を跨いで存在している。イラン国内のアゼルバイジャン人は人口の3割を占めると言われているが、少数派に属する。国内のアゼルバイジャン人が国境の向こうで高揚するアイデンティティに目覚め、分離独立運動に向かうことをイラン政府は恐れている。
両国は、2022年10月から23年1月までの3カ月間、一発触発の緊張した関係が続いたが、23年春より徐々に関係は修復の方向に向かった。しかしながら、23年9月19日から20日かけての電撃作戦(第三次カラバフ戦争)でカラバフの全土をアゼルバイジャンが奪回した後、トルコとイランはザンゲズール回廊をめぐってより対立を鮮明にした。23年9月24日、トルコのエルドアン大統領はナヒチェヴァンを訪問し、ザンゲズール回廊の早期開通の必要性を強調した。
これに対し、イランは23 年10 月23 日、イランは、アルメニアとアゼルバイジャンの外相会談をトルコとロシアの外相を含めてテヘランで開催した。この場で、アゼルバイジャン外相は、アルメニアを迂回しアゼルバイジャンがイランを通過するルートを開拓する案を発表した。このルートは、23年末から2024年1月にかけ、イランがザンゲズール回廊の代替案として提唱した「アラス回廊」を指す。事実、2023 年12 月下旬には、イランとアゼルバイジャンの国境線を渡る陸橋の建設がアラス川沿いで開通している。筆者が24年2月にバクーにあるいくつかのシンクタンクを訪問した際には、アラス回廊の構想がよく話題になった。
他方、アゼルバイジャンにとっては、ジョージア経由でトルコに接続されるルート、すなわちバクー・トビリシ・カルス(BTK)鉄道の改修工事の完成の方が重要だという空気が流れていた。事実、BTK鉄道はジョージア部分の延長工事が24年5月に終了し、BTK鉄道の貨物輸送量は拡大した。アラス回廊とザンゲズール回廊の構築については構想の段階で急激に進展はしない中、BTKという、アルメニア共和国の北側を通過してアルメニアを迂回した鉄道は着実に延長されている。BTKは、アゼルバイジャンにとって中央回廊の一部を成し、トルコからヨーロッパに連結する鉄道として重要なのである。
他方、イランが国際南北輸送回廊への参入を進展させるためには、アゼルバイジャンほど選択肢は多くない。2024年5月カスピ海沿岸のラシュト・アストラ間の鉄道建設はロシアによるファンドで進展する見通しとなった点はイランには朗報であった。だが、その完成は2028年とされ、まだ先のことである。その意味でイランにとってはアルメニアとの交易ルートの維持が重要であり、イランはザンゲズール回廊の進展に敏感に反応する。
こうした状況下、先述の8月中旬のプーチン大統領のバクー訪問は、イランにとって一大事となった。訪問の意図は、基本的にはアゼルバイジャンとの経済協力関係の拡大であり、戦略的なパートナーシップの強化である。プーチン大統領は制裁下のロシア経済の活路をアゼルバイジャンとの関係強化に見出そうとしている。実際にはいくつかの協定が両国のあいだで締結されたと言われている。紙面の関係上、ここではイランにとっての問題に焦点を当てる。
プーチン大統領は、アゼルバイジャン政府に対し、第三次カラバフ戦争後膠着しているアルメニアとの関係の修復に向けて仲介役になることを提案した。ここには、ロシアが仲介役を通じて2020年の第二次カラバフ戦争終結時の3カ国合意の履行をアルメニアに対して圧力をかけ、ザンゲズール回廊の開通を後押ししようとする意図が見える。3カ国合意は、いうまでもなく、ロシアが主導して締結された文書である。その第9条には、以下のようにザンゲズール回廊の構築が記載されている。
「この地域のすべての経済および輸送経路は遮断されることはない。アルメニア共和国は、双方向的な市民、車両、物資が妨害のない移動を構築するために、アゼルバイジャン共和国の西部地域とナヒチェヴァン自治共和国の間の輸送経路の安全を保証する。輸送コミュニケーションの管理はロシア連邦保安局国境警備局の機関によって実施される。
また当事者間の合意により、ナヒチェヴァン自治共和国とアゼルバイジャン西部地域を結ぶ新たな輸送コミュニケーション経路(結節点)の建設が提供される。」
(commonspace. eu. https://www.commonspace.eu/news/document-full-text-agreement-between-leaders-russia-armenia-and-azerbaijan)
ザンゲズール回廊という名称はこの条文にはないが、新たな輸送経路の建設が本回廊であることは地政学的に明白である。イランは、ザンゲズール回廊の構築がロシアのイニシアティブで今回浮上したことは、国境の変更をも含む国家安全保障上の脅威だと主張している。それは、ザンゲズール回廊のアルメニアの通過点が、メグリ地区というシュニック郡の中心地であるからである。シュニック郡は、歴史的にその領有が錯綜した地域である。シュニック郡は、サファヴィー朝ペルシャの領土であった時期があり、その後オスマン・トルコが侵略した時期を経て、ロシア・イラン戦争後に締結されたトルコマンチャーイ条約でカージャール朝ペルシャからロシアが奪還している。アルメニアは、3カ国合意に調印したとはいうものの、ザンゲズール回廊が構築されれば、通過点のメグリ地区(シュニック郡の中心地)が治外法権的な地位に落ちる、つまりアゼルバイジャンの特区のようなものになるのではないかと危惧している。それは、シュニック郡がソ連邦下ではナゴルノ・カラバフ地域の中に含まれており、アゼルバイジャンはこの地を含めて「カラバフ」の領有権として自国の領土であると意識しているからである。仮にメグリ地区がアゼルバイジャンの特区のようになれば、アルメニアとイラン国境沿いでアゼルバイジャンのプレゼンスが高まるため、それをイランもアルメニアも恐れている。特にイランは、アゼルバイジャンの勢力が拡大していくことをイスラエルとの関係上、懸念している。それは、第二次カラバフ戦争前後からアゼルバイジャンがイスラエルと関係を深めており、イランからそれほど離れていない地域に戦後建設され3つの空港にイスラエル機が離発着する可能性が出てきたことが関係している。
現在、アゼルバイジャンは実際にメグリ地区の領有権を表立って主張してはいないが、2023年9月の第三次カラバフ戦争でカラバフ全土を奪回したアゼルバイジャンにとっては「あとはメグリのみ」と考えるのは自然である。他方、イランにとっては、シュニック郡は経済的な権益上特に重要である。
制裁下のイランは、先述したようにライーシー政権以来、近隣国重視の外交政策を取っており、アルメニアもそのうちの一国に入る。2023年12月25日、イランは、ユーラシア経済連合(EAEU)との自由貿易協定(FTA)を、ロシアのサンクトペテルブルクにて調印している。EAEUは、ロシアを筆頭にベラルーシ、カザフスタン、キルギス、アルメニアが加盟しており、アルメニアはイランの重要な貿易相手国の一つである。
アルメニアとイランの貿易は、ここ数年間急激に伸びている。2022年の統計ではイランはアルメニアにとって第三の輸入国であり、天然ガス、精製石油、鉄などを輸出している。
アルメニアはロシアから天然ガスを輸入してきたが、ロシアへの依存度を縮小するため、イランからの天然ガスの輸入額を増やしてきた。他方、アルメニアからイランへの輸出品目のうち約6割が電力および電力インフラ関連物資となっている。イランは、2024年9月20日、海外での最大の貿易センターをアルメニアの首都エレバンに10月1日より開設すると発表した。またアルメニアは、脱ロシア政策をこの1年間推し進め、欧州との関係を強化する方針を取りつつも、イランを通じてインド洋に輸送ルートを開拓することを意図していると言われている。欧米諸国との関係が悪化するイランと欧州との関係強化を目指すアルメニアがどのように協調関係を維持できるかは、今後の注目点の一つになる。
あまり知られてはいないが、アルメニアのシュニック郡にはロシア軍がいまだに駐留している。アゼルバイジャンがザンゲズール回廊の開通問題はいったん放置し、アラス回廊をイランとの間で構想した背景には、この回廊の南端に存在するロシア軍の存在があると、筆者はバクー訪問時に聞いていた。ロシアは、3カ国合意に規定されていたラチン回廊における平和維持軍を2024年4月17日、予定より1年半早く撤退させていた。他方、アルメニアのシュニック郡からは撤退しないまま今日に至っているのである。その意味でロシアは、アルメニアでの駐留軍と、石油、天然ガスの取引を通じて経済関係を強めるアゼルバイジャンとのパイプの両方を通じて、南コーカサスに対する影響力を維持しようとしている。イランと同じく制裁下のロシアもまた、国際南北輸送回廊を自国の利益になるよう構築しようと試みている。
おわりに
2024年6月の大統領選挙で選出されたペジェシュキアン大統領は、外交政策の柱の一つである近隣諸国との関係強化という政策を前政権から踏襲すると言われている。イランはライーシー前政権の最後の1年間、中央アジア諸国との関係強化に乗り出していた。2023年2月、イランはトルクメニスタンとの貿易の拡大について折衝を開始した。同年3月には、ウズベキスタンとの間で包括的輸送協力関係を構築する動きに出た。その後、24年5月には、イランとインドがチャーバハール港の整備で10年契約を締結したが、7月にはイランはインドとともに、ウズベキスタンがその契約に正式参加するのを後押しした。こうした動きから、イランが中央アジア諸国のインド洋へのアクセスを仲介し、交易のハブとしての役割を担おうとしていることがわかる。
他方、本稿で取り上げたパキスタン及びアゼルバイジャンとの関係は、国境を跨ぐ2つの少数民族問題と交易ルートの開発問題とが重なりあいながら、ともに悪化しつつある。ザンゲズール問題は、単にアゼルバイジャンとの関係のみならず、イランとロシアの関係にも影を落としている。イランは弾道ミサイルをロシアに供与したとされ更なる経済制裁をアメリカから課されたが、イランがロシア一辺倒でないのは本稿でも明らかである。
ガザ戦争の勃発後、日本の海運大手3社は、昨年末以来、紅海ルートの運航を中止し、今日に至っている。その意味で紅海ルートの代替としての国際南北輸送回廊はますます重要性が高まっている。本回廊は、制裁下にあるイランにとっても重要であり、抵抗経済を生き抜く鍵となる。しかしながら、本回廊の実現への道のりはイランにとって課題を残している。このことは、本回廊全体の進捗にも影響を与えている。
筆者略歴
中西 久枝(なかにし ひさえ)
同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。イランの現代政治、イランを取り巻く中東の安全保障問題、イランの女性運動が専門。1994年米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)Ph.D.(歴史学)。1999年から2010年3月まで名古屋大学大学院国際開発研究科教授を経て現職。2001年イラン国際問題研究所客員研究員、2014年デューク大学アジア中東研究学部客員研究員、2022年ロンドン大学SOAS客員研究員など。
※『MEIJコメンタリー』 は、「中東ユーラシアにおける日本外交の役割」事業の一環で開設されたもので、中東調査会研究員および研究会外部委員が、中東地域秩序の再編と大国主導の連結性戦略について考察し、時事情勢の解説をタイムリーに配信してゆくものです。