中東かわら版

№16 サウジ:ムクリン皇太子の辞任、ムハンマド・サルマーン国防相の副皇太子就任

 4月29日、サルマーン国王は、ムクリン皇太子の辞任、ムハンマド・ナーイフ副皇太子の皇太子就任、ムハンマド・サルマーン国防相の副皇太子就任、サウード・ファイサル外相の辞任など、人事異動などに関する勅令26本を発出した。一連の勅令のうち主要なものの概要は以下のとおり。

  • ムクリン皇太子兼副首相が本人の希望により辞任
  • ムハンマド・ナーイフ副皇太子が皇太子・副首相に就任(内相兼務)
  • ムハンマド・サルマーン国防相が副皇太子兼第二副首相に就任(国防相兼務)
  • サウード・ファイサル外相が健康上の理由により辞任、国務相(閣議メンバー)・国王特別顧問兼特使・外交担当特別顧問に就任
  • アーデル・アフマド・ジュバイル駐米大使が外相に就任
  • ハーリド・アブドゥルアジーズ・ファーリフAramco社長が保健相に就任
  •  ※同時にAramco会長にも就任したとの報道もあるが、勅令では未確認。現会長はヌアイミー石油相
  • ムハンマド・スライマーン・ジャーシル経済計画相が王宮府顧問(閣僚級)に就任
  • アーデル・ムハンマド・ファキーフ労働相が経済計画相に就任
  • ムフラジュ・サアド・ハクバーニー副労働相が労働相に就任
  • ハーリド・アブドゥルラフマン・イーサー王宮府副長官が国務相(閣議メンバー)に就任、政治・安全保障評議会メンバーにも選出
  • ハーリド・ムハンマド・ナースル・ユースフ苦情処理庁裁判官が苦情処理庁長官(閣僚級)に就任
  • ハマド・アブドゥルアジーズ・スワイリム皇太子府長官が王宮府長官(閣僚級)に就任
  • ※これによりムハンマド・サルマーンが兼務していた王宮府長官職は解かれたと見られる
  • 軍・治安機関の職員に1カ月の給与分の褒賞金を支給
  • マンスール・ムクリン・アブドゥッラー・アール=サウード皇太子府顧問が国王顧問(閣僚級)に就任

評価

 

 今回の人事異動はで、サウジ王家の慣習に反する異常事態が発生している。ムクリンが皇太子としての実権に乏しかったことは自明のことであり、実力のある若手のムハンマド・ナーイフが次期国王として確定したことは、サウジ王族内の世代交代を促進するものとして歓迎する声もある。しかし、皇太子が存命中にポストを外されるということは、異例のことである。ムクリンはアブドゥッラー前国王に副皇太子に任命され、その際に出された勅令で「いかなる方法・形式によっても、また、どのような人物であっても、この任命を変更・修正してはならない」と規定された。勅令同士が矛盾する場合は新たな勅令が優先されるため、法制度上は問題はないのかもしれない。しかし、アブドゥッラー前国王の遺志と反することは明らかであり、過去の約束を反故にする形で今回の勅令は出されている。

 ムハンマド・ナーイフが副皇太子から皇太子に昇格したのは順当な動きであり、特筆すべきことはない。しかし、サルマーン現国王の息子であるムハンマド・サルマーン国防相が副皇太子に就任したことは、驚くべき人事であった。ムハンマド・サルマーンは、父親のサルマーンが今年1月に国王に就任した際に、若干35歳(30歳とも言われている)で国防相兼王宮府長官に抜擢された。まだ年若く、役職の重責に対し本人の資質が見合ったものであるかが疑問視されていたため、先のサウジ主導のイエメン空爆の実施は、ムハンマド・サルマーンの「実績づくり」とも噂されていた。将来的に任命される可能性は大いにあったにせよ、これほど早く副皇太子として王位継承ラインに乗ることになるとは予想されていなかった。

 この突然の人事異動の背景、特にサルマーン国王の思惑については、少なくとも以下の2点を指摘できよう。第1に、自らの権力基盤を固めるため、異母兄のアブドゥッラー前国王色を払拭し、代わりに同腹の兄弟とその息子たちであるスデイリ家を台頭させることである。1月の人事、そして今回のムクリンの処遇により、サルマーンは、アブドゥッラーが晩年に任命した要人をことごとく排除した。そして、甥であるムハンマド・ナーイフを副皇太子に引き上げるなど、スデイリ派閥を強化しようとしている。そして、第2に、息子のムハンマドを将来の国王とするための道筋をつくることである。サウジでは王位継承権は初代国王のアブドゥルアジーズの子孫に限定することになっているが、数千人もいるとされる候補王族の中から国王に選ばれるためには、能力・資質・経験の面で優秀な人物でなければならない。サルマーンの同腹の兄であるスルターンは35歳で国防相に就任し、2011年に逝去するまで48年間国防相の座にとどまっていたが、サルマーンは息子のムハンマドにも同様のキャリアを積ませようとしているのだろう。

 最大の懸念は、この一連の人事について、王族内で合意がとれているのか、という点である。自身と血縁の近い人物を要職に就け、他の王族を権力の中心から排除するという政治手法は、王族内での対立を助長しかねない。アブドゥッラー前国王が、息子らを国家警備隊相や州知事に任命しながらも、スルターン、ナーイフ、サルマーンといったスデイリ家を冷遇せず、皇太子として受け入れてきたこととは非常に対照的である。特に、サルマーン、ムハンマド・ナーイフ、ムハンマド・サルマーンと、スデイリ家から連続して国王が輩出されることを固定化したことは、他の王族から反発を招きかねない。

 また、ムクリンを皇太子から外したことは、悪しき先例となる恐れがある。これまで皇太子は、国王より先に亡くなった場合を除き、国王になることが決定づけられていた。唯一の例外は、ファイサル国王の時代に皇太子に就任したムハンマド・アブドゥルアジーズである。彼はその資質が問題視され、わずか4カ月で辞任することになったが、自身が辞任する代わりに、同腹の弟であるハーリドを皇太子に任命することをファイサルに受け入れさせた。しかしながら、特段の失策や問題がないにも関わらず、時の国王の判断により皇太子を交代することが可能であるならば、王位継承のレースは、皇太子・副皇太子に任命されたとしても終わらないことを意味するようになる。サルマーンは自身に近いムハンマド・ナーイフを皇太子に任命したことで、自分の死後に彼がムハンマド・サルマーンを皇太子に任命することを期待しているかもしれないが、王家内の権力闘争の推移によっては、ムハンマド・ナーイフがムハンマド・サルマーンを皇太子から外すことも選択肢に入れることができる素地を自ら形成したことになる。

 いずれにせよ、このような王族内での対立の激化は、初代アブドゥルアジーズ国王の息子たちの間で権力を分有し、合意形成をしながら進めてきたサウジの政治体制の根幹を揺るがしかねない。1975年から40年間外相を務めていたサウード・ファイサルの辞任は遅かれ早かれ予期されていたことであったが、彼に国務相・国王顧問のポストが用意されていたことと対照的に、ムクリンには後のポストも用意されていない。ムクリンの息子で皇太子府顧問だったマンスールを、一連の勅令の最後にとってつけたかのように国王顧問に任命したことで一定の配慮を示したのかもしれないが、ムクリン家にとっては不満が残る人事となった。王族内での対立が強まることは、長期にわたってサウジ王家の力を弱め、政治の不安定性につながる恐れがある。サルマーン国王が指導力を発揮し、これらの不満を抑え込み、反対王族を懐柔することができるのか、今後の動向に注目する必要がある。

図:サウジ関係王族家系図

 

※本件に関連する過去の「中東かわら版」及び「中東トピックス」は下記のとおり。

「サウジアラビア:アブドゥッラー国王の逝去・サルマーン皇太子の国王即位」(2015年1月23日)

「サウジアラビア:ムハンマド・ナーイフ内相の副皇太子任命」(2015年1月24日)

「サウジアラビア:サルマーン新政権の発足・国民への給付金の支給」(2015年1月30日)

「サウジアラビア:二つの専門評議会を中心とする新体制の発足」(2015 年 2 月27 日)※会員限定

(研究員 村上 拓哉)

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